アジア人初のハリウッドスターといえば、香港を代表するアクション俳優ブルースリー。
一体どんな仕事をする両親の元で幼少期を過ごし、香港から世界へ羽ばたいたのでしょう?
そこでブルースリーの生い立ちや両親の仕事を、幼少期のエピソードと一緒にご紹介。
没後50年経っても人気が衰えない、ブルースリーの生い立ちにまつわるエピソードをまとめてみました。
ブルースリーの生い立ちや両親の仕事は?
香港スターのブルースリーが生まれたのは、カリフォルニア州サンフランシスコ。
アメリカの中華街にあった病院で誕生し、7歳頃にイギリス植民地下の香港へ帰国しました。
姉2人と兄と弟が1人いるブルースリーは、5人兄弟の4番目に生まれた次男坊。
ちなみに、5兄弟の名前がこちらになります。
では香港スターのブルースリーは、どうしてアメリカで生まれたのか?
それは、ご両親の仕事が関係していたようなんです。
ブルースリーの両親の仕事!
父親は『李海泉(リー・フラントン)』、母親は白人と中国人のミックス『何愛瑜(グレイス・ホー)』。
ちなみに写真の左が父親の李海泉、右がアメリカから香港へ移った7歳頃のブルースリーです。
父親は広東地方の演劇、『奥劇(エンゲキ)』で活躍する名優として知られていました。
ブルースリーがアメリカで生まれた理由は、父親が家族を連れて長期のアメリカ巡業に行っていたからなんです。
そして有名なのがブルースリーの誕生日、辰年だった1940年11月27日辰の刻(午前8時)生まれ。
正しく、生まれながらに『ドラゴン(辰)』だったんですね。
ちなみに母親は、香港の実業家(何甘棠)のお嬢さんだったそうですよ。
では俳優の父親を持つブルースリーは、その後どんな幼少期を過ごしたのでしょう?
ブルースリーの幼少期エピソードが凄い?
5人の子供を持つ俳優の父親は、ブルースリーには演技の才能があると感じたんだとか。
ちなみに上記の写真は、まだ生後間もないブルースリーの写真になります。
そしてサンフランシスコから香港へ戻る直前、広東語の映画『金門女』に親子で出演。
なんとブルースリーは子役として、1946年に端役ながら映画デビューをしたんです。
名優と呼ばれた父親には、先見の明があったんでしょうね。
では、香港へ戻ってからのブルースリーの幼少期をご紹介しましょう。
ブルースリーの幼少期エピソード①
香港へ戻ってから父親は、自身が出演する撮影現場へブルースリーを連れて行きました。
実はその作品の主演子役が決まっていなかったので、わざと父親は連れて行ったとも言われてます。
そして案の定、原作者の目にとまったブルースリーは『李小龍』として主演デビューをしました。
ちなみに映画のタイトルは『細佬祥』で、少年が家出をする物語となっています。
ブルースリーの幼少期エピソード②
少年時代から武道を学び、子役の仕事もやっていた為か学校の成績がよくなかったそうです。
またアメリカ生まれのブルースリーは、特に国語(広東語)が苦手だったとか。
そんな息子を気に掛けた父親は、息子の仕事を夏休み限定にすることにしました。
しかし親の心配をよそに、成長と共にブルースリーの素行不良は目立っていくようになるんです。
ブルースリーの幼少期エピソード③
少林拳や節拳を学んでいたブルースリー、13歳の頃に詠春拳を『葉問』の元で修行を始めました。
ちなみに『葉問』は詠春拳葉問派宗師で、映画にもなった『イップ・マン』という方になります。
そんな著名な中国武術家の元で学んだ詠春拳を、ブルースリーはケンカに使うため3年で破門に。
破門後は兄弟子に2年教わったおかげか、高校ボクシング大会でチャンピオンに1ラウンドKO勝ちしました。
ブルースリーの幼少期エピソード④
香港の繁華街でケンカ三昧だったブルースリー、別の不良グループ殺されるかもしれない事態に!
そこで心配になった父親は、まだ18歳の息子にアメリカ行きの片道切符と100ドルを渡しました。
香港で圧倒的に強かった不良少年のブルースリー、渡米しなければ殺されていたかもしれませんね。
もしくは、悪の組織を支配するようなボスになっていたかも…?
父親が息子をアメリカへ送り出していなければ、ブルースリーという俳優は誕生してなかったといえるでしょう。
まとめ
ブルースリーの生い立ちや両親の仕事、幼少期にまつわるエピソードを紹介してきました。
香港を代表するスターの誕生には、幼少期に役者の才能を見抜いた両親がいたからといえます。
また俳優の息子という生い立ちや、ヤンチャなエピソードを持つ子供だったからかもしれませんね。
亡くなってから半世紀を過ぎたブルースリー、これからも多くのファンの心に刻まれ続けるでしょう。
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